100年生きるという事

僕ら世代の寿命は90~100歳程度になるらしい。

 

そうなると発想の転換が必要である。

 

僕らの親が辿ってきた、学校で学び、就職し、定年まで勤め、引退し老後を送り、そして死ぬ。

 

この人生設計はもはや成り立たない。

 

僕らは親達よりも長い期間に渡って、就業する必要が生じる。

 

でも、それは決して悲しい事ではない。

 

 

僕が思うのは、これからの日本はこういった、かっては労働人口に算入しなかった「老人」に働いてもらわないと成り立たなくなるのである。

 

それは僕らにとってとても素敵な事である。

 

従来は年寄り(生産性のない者)が、増え続ける社会の未来は暗い、と考えられてきた。

 

僕もあまりにも長生きするのは社会にとって、迷惑な行為なのではないかと思っていた。

 

若者への負担が大きい国家というもの行く末は如何なものかとさえ思った。

 

それは社会保障制度の面からが主であったろうか。(年金問題など)

 

 

でもここで発想を変えてみよう。

 

僕らは別に自分達の事は自分達で賄えば良いではないか、動けなくなるまで。

 

要は親達が引退した年齢の頃は、僕らはまだまだ働き盛りでいれるという事だ。

 

若い世代の働きにすがらなくても、年長者が自分の力で生活していける社会。

 

それはとても素晴らしい事だ。

 

 

そのためにはどう人生を渡っていけば良いのか?

 

親達の世代は大体4つぐらいに分けられたであろうか。

 

学校、就職、家庭、生活。

 

僕らは働いてからの人生が、彼らの倍ぐらいにはなるのではないだろうか。

 

ただ、そんなに働く期間が長くなるという事は、生活の基盤である仕事が一本では不安だ。

 

僕らはこれから何度か訪れる労働環境の変化に対応するために、複数の業種、職種に挑戦出来る準備を怠ってはならない。

 

それは必ずみんなに訪れる。

 

でもそれはとても幸運な事なのだ。

 

それを社会が容認する時代になるのだから。

 

 

僕らの親の世代は働く期間が(僕らから見ると)短かったからもしれないが、ある程度同じ職場に勤め続ける事が尊ばれた。

 

でも僕らはそうではなく、年齢を重ねていく中で、その年代にあった仕事に転職していく事になるのではないだろうか。

 

それとも、複数の仕事を同時に営みながら、仕事毎にライフサイクルがあったり、新しい仕事をそこに差し込んだりする事が当たり前になるのかもしれない。

 

そうしながら、80歳ぐらいまでは少なくとも第一線で働き続ける事が求められる、そんな社会が必ず来ると思う。

 

だから、僕らは新しいモノを求めながら、常に次はこんな事したいなとか考えながらエネルギッシュに生きる事が出来る。

 

 

親世代の経験則なんか何の役にも立たないし、それを僕らに当てはめて考えるのはナンセンスだ。

 

僕らは僕らの時代の生き方を模索し、構築していけば良いのだ。

 

そういう意味ではちょうどプロトタイプとして、僕らはラッキーなのかもしれない。

 

さあ、これから何回ぐらい新しい事にチャレンジして、それを飯の糧と僕は出来るのだろうか。

 

ものすごく楽しみだ。

 

 

大体、寿命が90~100歳という事は、僕もまだまだ折り返し地点にも到達していないという事だ。

 

昔だったら、俺の人生も見えてきたなと思う歳だが、明らかに僕らの場合はこれからも何度も大きな波がやってくるに違いない。

 

それに前向きに対峙していきたい。

 

姿三四郎の言葉に「修行とは出直しの連続なり」とある。

 

その通りだ。

 

いつの時代も名言は不変に眼前を照らしてくれる。

 

 

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