具体的な事象への指摘は差し控えるが、昨今表題のこの言葉をよく耳にしたり、ネット上で散見する機会が多々ある。
既存勢力、守旧勢力への抵抗は素晴らしいと思う。
僕もその気概は大切だと思う。
今まで正しいと思われていた事が、実は捻じ曲げられた情報だった、、そんな事は今までも往々としてあった。
そこに誰かが疑問符を掲げてくれ、それが大きなうねりを呼び込み、社会は変革されていく。
それは新しい時代への起点として大変好ましい事でもある。
ただ、この時に一つの疑念を僕は持つ。
その新しい情報、真実と言われる情報は本当に正しい話なのだろうか?
裏付けのない、センセーショナルであり、ポピュリズムに満ちたその真実??の情報の真贋は、さて果たして、、
それを盲目的に信用するのは、旧来のマスコミに絡めとられている者達とどこに違いはあるのだろうか?
大切なのはいつだって、溢れかえるような情報の渦に飲み込まれ思考する事を止めるのではなく、様々な情報を精査し、その事について自分で熟考し、自分なりの答えを導き出し、結果的に正誤の思慮分別のある人間でいるべき事だと、僕は思う。
声が大きい人間、見た目がスマートで分かりやすい言葉で民衆に訴えかける人間が、正しい事を常に言っている、、そんな事は絶対になく、逆に注意するべきだと僕は思う。
また、権力者へのアンチテーゼを掲げる者、耳障りのよい言葉のみを羅列する人間にも注意すべきである。
いつだって、泥棒と嘘つきは笑顔で優しい言葉を弄しながら、無知な者から搾取しようと待ち構えている事に注意を払わなくてはならない。
最近の風潮として、クロと断言できない事はシロである、という決めつけが横行しているようにも感じる。
刑法の大原則である「疑わしきは罰せず」を曲解し、またこれを逆手に取り、逆に相手に対して積極攻勢に出る、僕はそんな社会に若干の違和感を感じる。
刑法においては、100%有罪といえないのであれば有罪とすべきではない、という言葉面ではあるが、100%有罪と確信を持っていえるくらいその事象に対して、検証し、熟慮する必要があるという意味でもある。
この事は全ての事柄に当てはまる事である。
そして、クロと断言できるだけの証拠がないが、本当にクロではないのか?と思いあぐねる事もまた大切だと思う。
それくらい物事の真実の解明という物は深く重たいものだと思う。
一元的な意見で全ての回答を見つけ出す事など、絶対に出来ないし、あってはならない。
ネットに散乱している出処・確証不明な情報はあくまでも気付きや疑問点の出発点とし、そこから自分なりの情報の検証をし、結論としての自分の意見を常に持つ事が、現代の世の中で生き抜くためのスキルとして重要度を増してきていると思う。
決して、「ネットで全てを知った」なんて、傲岸不遜にも思わないで欲しい、と僕は思う。