多数決と民主主義

最近、民主主義という言葉を耳にする機会が多い。

 

やれ、どこの国の首相は国民の意見をきちんと取り入れて民主的だ、あそこの国は国民投票で民意を図って民主的だ、などだ。

 

でも、果たして上記は民主主義なのだろうか?

 

答えは否、民主主義ではなく、それは多数決主義だ。

 

意外に感じる方もいると思うが、多数決イコール民主主義ではない。

 

多数決というのは数が多い方が勝ち、少ない方の意見を無視する、それはただの優勝劣敗主義であり、民主主義とは全く異なるものである。

 

日本を始めとするいわゆる民主主義を標榜する国家は、国民の政治信条の自由をある程度保障している。

 

なので、我々はそれぞれの様々な心持ちにおいて、社会生活を行っていく事が出来る。

 

それはどういう事かというと、同じ日本国民でありながら、全員が同じ意見を持ち得えないという事だ。

 

それは素晴らしい事でもありながら、まとまりがないと言えなくもなく、それぞれの考え全てを実際に反映させる事は不可能であり、それをしてしまうと時間がいくらあっても足りない。

 

もちろん、民衆の気持ちが唯の一つになどなるわけがない。

 

なので、ここで多数決が必要となるわけだ。

 

しかし先述したが、多数決だけでは民主主義ではない。

 

ここで調整役が必要となる。

 

多くの近代国家は間接民主制なるものを採用しており、もちろん日本もそうしている。

 

我々の中からある程度見識のある者を選び出し、彼らにみんなの代わりに国民の数々の意見を吸い上げさせ、吟味させ、大多数の意見をある程度多めに取り入れながら、少数の意見も汲ませ、何とか中庸の結論を見出させ、国を前に進めさせる。

 

それが現代の間接民主制を採用する近代国家の一般的な政治のやり方であり、その業務をつかさどるのは政治家であり、その責任者は首相や大統領である。

 

彼らは一般大衆が100%正しい判断は下せないし、多数決では優勝劣敗になってしまうので、それを正すため(不完全ながら)に存在しているのである。

 

この事はとても重要な事であり、彼ら政治家の存在価値の根本なのだ。

 

昨年、英国の首相が国家にとってとても大切な事柄を、あろうことか国民投票で決を採るなどバカげた事をしてしまった。

 

我々一般大衆などは先見性、情報力などは持ち合わせていない者がほとんどだ。

 

その判断基準は近眼的、自己的、その場主義に偏ってしまうに決まっている。

 

それを無視して、国家100年の大計に関わることを間接民主制を捨て、国民投票とし、政治家としての職務を放棄してしまった元首相の罪は重い。

 

そして、日本においても国会で、たまに強行採決なるものが行われる。

 

それが本当に数にモノを言わせた有無を言わさぬ多数決なのか、それともある程度の議論を尽くした結果の最終的に前に進めるための手段として行われるのか、我々はしっかり確認しなくてはならない。

 

何事も最終的な結論はある程度出さなくてはいけないが、それが民主主義を掲げるのであれば、ある程度は少数意見も聞き入れる必要がある。

 

それが民主主義なのだ。

 

最終的に民主主義において、結論を付ける者の責任は非常に重いのである。

 

 

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